7月某日、今年開館30周年の現代美術館で、90年にわたる美術をたどった。
所蔵作品を10年ごとに区切った9つの部屋を順路通りに行く訳だが、どうしても早足になって、比較的居心地のいい80年代へとワープしそうな勢いだ。もっとも、70年代までだって、じっと見る努力はする。しかし、70年代までの作品を前にすると、その向こう側から壁を破ってこちらに覆いかぶさってきそうな、何か“圧”を覚えることに辟易して、先を急いでしまうのである。
同時代からの “圧”は、子どもの頃にも受けた。我が家にあった小学館の百科事典の美術編。近代までの絵画や彫刻のページを捲っている分には良かったのだが、現代に入ると、事典のページから、それが飛び出してきそうだった。美術を見ているという感覚ではなかった。日常のささいなものか、その場の景色を撮った写真に過ぎない対象をあえて見ているのは、どうしてか?子どもの頃、そういうことを思った。
そして今でも、相変わらず、早足で過ぎようとする。でも通り過ぎた場所に限って、いつまでも気になる。答えの出ていないものは、いつまでも探したいのかもしれない。僕はこれから何度も清澄白河へ来て、“いちばん奥まで進んで、左へ”を繰り返し、また、早足で通り過ぎるのだろうか?(篠原)
*地下鉄半蔵門線、清澄白河駅歩20分。特別なことをしようと思わなくても、頭のなかをリフレッシュできる場所です。



