裏千家茶道を習い始めて3年になります。毎週土曜日に先生のご自宅に伺って、楽しくお稽古をしております。
明治の美術思想家岡倉天心が『茶の本』の中で「いやしくも日本文化を研究せんとするものは『茶の湯』の存在を無視することはできない」と述べているように、お茶の世界には日本文化のすべてが凝集しています。茶碗や茶杓といったお道具は焼き物や工芸、茶室を彩るお軸は日本絵画や書道、お花は華道、茶室の建築、茶室に至る造園も日本の伝統文化の結晶です。着物にもお菓子にも職人の伝統技術が込められています。
またお茶における「日本文化」はこのような形あるものだけではありません。お茶の本質は形ではなく、主客の交わり「心」にあるのです。例えば「茶道といえばなにやら茶碗を回して飲んでいる」というイメージがあるでしょう。これも「お客様に茶碗の一番良いところを向けてお出しする」主人の心と、「一番良いところには口をつけない」客の心の交わりによるのです。日本人らしい細やかさだと感じます。
先生のお茶室で楽しく語らいながら過ごしていると「日本人でよかった」とよく思います。しかし、そう思う時いつも反射的に思い出す本があります。それは小坂井敏晶著『民族という虚構』です。小坂井氏は現在フランスで活躍している心理学者ですが、著作は東大2次の国語にも採用され話題になりました。
簡単に小坂井氏の主張を言うと「『民族』などそもそも存在しない。近代化に伴う国民国家のイデオロギーの支配のもと、都合の良い範疇化によって生み出された虚構に過ぎない」というものです。確かに人間は本来個々に複雑な差異を持つ存在です。それを十把一絡げに出生地や血縁だけで「同一同族」とみなすことはある種の暴力です。実際このような範疇化はそこからこぼれる人たちに対する差別や激しい対立を生み、紛争を絶えず再生産しています。小坂井氏はこのような虚構に対し、虚構を否定するのではなく外部化すること、そのためにもマイノリティーの重大性を説いています。まるで世界に薄くかかっていた膜を引っぺがされるような爽快感のある一冊です。しかし…氏の説によれば「日本人」が虚構である以上「日本文化」もまた虚構でしょう。私が毎週茶室で感じる「日本人でよかった」感もまた虚構なのだろうか…とふと考えます。
私の中には小坂井氏の「民族/文化虚構論」も「茶室の実感」も対立せず併存しています。
このことを思うとき、私は風でくるくると回る一群の落ち葉を思います。おそらく民族とか文化とは小坂井氏の言う通り元来ある不変のものでもなく、かといって必ずしも権力に押し着せられたものでもない自発的な力も持つものだと思います。それは風のようです。文化という風に巻かれて、構成員は舞う木の葉のように軽やかに結びついているのではないか。強固でソリッドな結びつきではなく、しかしなお解けず一群をなしている。風と共に動き、変容し、時には他の一群と結び、融合し、また別れ、しかしなお散逸しない何か。それが文化というものじゃないかと思います。
日本文化の頂点であるかのように思われている茶道ですら、縄文から続く日本の歴史の中ではわずか500年程度しか歴史がありません。その500年の間にも、作法は様々に変わり、新しい点前が生み出され、この先も様々な要素を取り込みながら変容していくはずです。でも「茶道」という風がほどかれることはないでしょう。自分がそのような風の中にあることを思いながら、また同じように他の風の中にある人との出会いを喜べる人間になりたいと思っています。(相田)


