夏目漱石(1867~1916)。言わずと知れた、世界的に知られている文学者です。
井上俊子先生は、以前勤めていらした日本語学校で、この漱石と向き合った時期があったそうです。日本の偉人をテーマにした、中級日本語教科書の執筆メンバーだったからです。
取り組んだのは、専任教員が2人しかいない、小さな日本語学校の非常勤講師7名でした。「日本文化」「日本人」「2級文法」をキーワードに、「教材がないなら、学生のために自分たちで作ろう」ということで始まり、進めるうちにどんどん欲が出て、ついには出版を夢見るまでになりました。言葉、文法、大意取りの設問などを配した、総合的な内容になりました。
結局、目標には届きませんでしたが、取り組んだ月日は、7名それぞれに何ものかを残してくれました。
実は、先生自身は、森鷗外がお好きなのだそうです。ところが、同僚から、「あなたは、漱石」と言われたのだそうです。
本文は、書き下ろしです。2級文法を、随所に散りばめて、学習効果の高い文章にしました。
特に出だしのところは苦労されたそうです。留学生に時代を知ってほしかったので、明治時代の風俗が感じられるように気を配りました。
そして、進路のことなど、留学生が異国で直面することも入れました。世の中に何かを残すとはどのようなことなのか。そんなことを伝えることができればと考えながら書きました。そして、何よりも読書をしてくれたらいいなと思って書かれたそうです。
当時は、まだパソコンはありませんでした。ワープロだったので、レイアウトにも苦労されたそうです。
夏目漱石
長い鎖国を終え、明治という新しい時代を迎えた日本は、近代化に向けて大きく前進しようとしていた。人々の生活や考え方は新しくなり、町では、ちょんまげや刀が姿を消して、洋服屋が大繁盛した。牛肉を食べさせる店もたくさんできた。夏目漱石はそのような時代に生きる人々の姿を通して、人間とは何かを考え続けた作家である。
当時の社会には「文学などというのはまともな人間のすることではない。」という考えがあった。それにもかかわらず、漱石は外国の文学を勉強して新しい日本のために役立とうと決心し、苦学の末、優秀な成績で東京帝国大学(現在の東京大学)英文科を卒業した。その後、教師になるが、文学に生きたいという気持ちがますます強くなり、それにしたがって、「自分のほんとうにやりたいことはこんなことではないはずだ。」と考えるようになった。
あれこれ思い悩んでいるところへ、文部省から二年間のイギリス留学を命じられる。欧米の新しい文化を学ばないことには、本当の近代化は果たせないという考えから、政府は、優秀な人材を海外に送っていたのである。あまり気が進まなかったものの、選ばれた上はしっかり使命を果たそうと、漱石は一人ロンドンへ旅立った。三十三歳の時のことである。知らない土地で不自由しながらも、ロンドン大学に通い始めた。ところが期待に反して講義はそれほどおもしろいものではなかったため、シェークスピア研究家に個人教授を頼んだ。一年近くにわたる指導を通してさまざまなことを学んだ反面、外国での孤独な生活のせいか、しだいに精神状態が不安定になっていった。そして転々と下宿を変えながら、部屋に閉じこもって、ひたすら英文学書を読み続けた。
学べば学ぶほど、文学に対する関心はますます高まり、「文学とは何か」ということを考え続ける毎日だった。そのため、できるかぎり経費を節約して参考書を買い集め、昼も夜もその研究に打ち込んだ。しかし留学費用の不足、不自由な生活、孤独感などのために神経衰弱に悩まされ、そのあげく、胃までこわしてしまった。
心身ともに疲れきった漱石には、文部省への報告どころではなかった。しかも下宿に閉じこもったきり、人に会おうともしないことから、このままでは自殺さえしかねないといううわさが日本に伝わり、あと一か月の留学期間を残しながら帰国を命じられてしまった。漱石にすれば不名誉なことであったが、このイギリス留学の間、文学について考え続けたことが、作家としての漱石が生まれる基盤になったと言うことができるだろう。
帰国後は教師をしながら執筆活動に入っていくが、三十九歳の時に最初の作品『吾輩は猫である』を発表したとたんに大評判になる。「吾輩は猫である。名前はまだない。」という書き出しで始まるこの小説は、猫の目を借りて人間の生活をおもしろく描いたものである。歯切れのよい文章、ユーモラスな内容、そして鋭い皮肉など、それまでにないおもしろさで、漱石の名はこの一作で広く知られるようになった。
この成功をきっかけに、教師をやめて本格的に小説を書き始め、多くの作品を発表して作家としての地位を築いていく。『坊ちゃん』は四国の松山で高校の教師をしていた時の経験に基づいて書かれたものである。主人公の「坊ちゃん」は江戸っ子で、正義感の強い青年である。遠く離れた四国の学校の教師になるが、言葉も風土もまるで異なる土地での毎日は、新米教師には驚きの連続である。生徒たちのいたずらにあうやら、複雑な人間関係に巻き込まれるやら、何かにつけ苦労が絶えないが、どんなときにも妥協することなく自分の考えを貫いていく。この作品は「坊ちゃん」を中心にして、「たぬき」「赤シャツ」「マドンナ」などというあだ名をつけられた個性的な登場人物が展開する愉快な物語である。
そのほかにも、明治時代の学生の考え方や生き方を描いた『三四郎』、人間の中の罪や矛盾、そして苦しみを美しい文章で表した『こゝろ』、自伝的小説『道草』など多くの作品を残したが、大作『明暗』を執筆中に胃病が悪化し、未完のまま世を去った。四十九歳であった。
漱石は東西の文化を深く学ぶ一方、人間の心理に深い関心を持ち続けた。新しく生まれ変わった日本がどのような文化を作っていくのか、社会と自分はどうあったらよいのかという問題を文学によって表したのである。漱石が大切にしたのは「個人主義」という考え方である。ここでいう個人主義とは、いわゆる利己主義のことではなく、自分を大切にしつつも、他人の自由や考え方も尊重しようではないかという考え方である。
漱石は明治から大正にかけての変わりゆく時代の流れの中で、人間の生き方を問い続けた。その一生は必ずしも穏やかなものではなかったが、さまざまな苦しみの中から生み出された作品は、老若男女を問わず今もなお広く愛読され、高く評価されている。
漱石の留学生活は、楽なものではありませんでした。孤独感から、神経衰弱に悩まされ、胃まで壊してしまいました。文部省への報告どころではありませんでした。下宿に閉じこもって、人と会おうとしませんでした。
しかし、この時期について、井上先生はこう記されています。
<このイギリス留学の間、文学について考え続けたことが、作家としての漱石が生まれる基盤になったと言うことができるだろう。>
人生において、留学というものがもつ価値。わたしは、ここに一番感じ入りました。
それはきっと、留学生に出会ってほしい「人間・漱石」の姿が、この日本語教科書の原稿に描かれていると、確かに感じたからだと思います。(織田)


