1年間、学生の読書感想文と向き合うことで、様々なことが見えてきました。第1回の佐藤可士和氏の文章に始まり、学生の成長の兆しを感想文の中に見出す作業は、同時に、教師自身のありかたを考えるきっかけをいくつも与えてくれたように思います。
当初、学生たちにとっては“日本語を書く練習”だったかもしれませんが、しだいに、日本語ならではのニュアンスを駆使するようになり、時に詩的な構成をもった文章、時に生活に根ざしたエッセイ、或いは、歴史的文化的な知識に基づいたメッセージ性をともなった主張…と、感想の枠を超えて感受性豊かな“作品”を多く提示してくれました。
他方、受けて立つ教師たちのコメントも、最初から教師側の意見を併記するのでなく、学生の主張を喚起し本文への理解を促すきっかけとなるような、的を射たものになりました。豊かな未来を学生が自ら開いていく、そのための架け橋が日本語教師なのだと、あらためて感じられました。
しかし、学生たちにとって読書感想文への取り組みは、それぞれの「行く先」を模索するだけでは終わりませんでした。それは、授業も終盤を迎えた、この数か月の間に明らかになってきたことです。
前出の佐藤氏は、『佐藤可士和さん、仕事って楽しいですか?』(宣伝会議、2013年)の中で、“子どものころに夢中になれたことと、仕事とを結びつけて考える”ことの大切さを説いています。
これに対して学生たちは、ほぼ一様に、“それは大切なことだ”と賛意は示すものの、子どものころの話と、今の自分とが、必ずしも自然につながっていない印象を受けました。佐藤氏が語っているのは、おそらく40代前半の頃だと思われますが、やはり、そのくらいの年齢になればこそ、過去と現在とを1本の線で結びつけられるのだと考えられるのです。
つまり、「行く先」と同時に、「来た道」を探すとなると、若い学生たちにとって、それはそれで、また冒険的な作業となるようです。
この「来た道」を探すという作業は、それからしばらく経ってから提示した、森村泰昌氏の文章(同著『美術、応答せよ! 小学生から大人まで、芸術と美の問答集』(筑摩書房、2014年)によって、過去・現在・未来を果てなく行き来する模索へと、学生を導く結果になりました。
森村氏は、“「芸術」とは青春時代に似てい”る、つまり、子どもから大人へ成長する過渡期(それはまさに留学生たちが今過ごしている時期)である青春を“いかに持続させていくかが、「芸術」を生み出す鍵”だと述べられています。
学生たちは、“青春”という言葉に目覚めたようでした。青春の時代が過ぎてしまったと考えている学生の文章からは、むしろ過ぎた時間の意味を深く考えて、現在ある自分の立ち位置を確かめようという熱意が伝わってきました。
私は、遠い過去に客観的に終わったはずの青春を持続させたがっている教師の一人ですが、学生たちにはしばしば、“日本語学校での日々はあっという間だから、卒業した時に、良かったと思えるように過ごしてください”と言っています。その想いに似たもの或いはそれ以上に価値あるメッセージを、学生たちが受け止めているとすれば嬉しいです。しかし、やはり、若い学生たちにも、限界はあります。
この仕事をしていて最も大切なことは、自分がもし彼らと同じく20代の留学生だったらどう考えるだろうかと想像する力だと感じます。
学生たちの成長を認めるだけでなく、学生の限界を自分の事のように認めることです。知らないうちに、教師自身が理想とする感覚に、学生たちが追いついて当然だと、期待しすぎていないだろうかと、時には考えたいものです。
言い換えれば、日本語教師として私たちにできることは、無事にその旅立ちを見送ることで、教師として生活の外に残された余白には、教師でない自分がいます。自分に戻ったとき、一生懸命生きている姿があれば、それは学生にも伝わって、想像力ある交流から、この世界が平和になるヒントが次々に創造されていくことでしょう。(篠原)
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